年代順作品集

 

昭和50年代〜

粟野ハウジングは戦後間もない頃創業を開始しましたが、ここにご紹介するのは今から過去40年くらいの時期に絞らせていただきました。
なにしろ、私(粟野徹S38生)が解説しやすいのがこの時代なので。申し訳ありません。
年代順に代表的な建物をご紹介します。
粟野ハウジング自宅(昭和54年)
粟野ハウジング自宅です。
得意の入母屋造りの建物です。
それまで培ってきた技術を全て注ぎ込んだ集大成的な建物です。
瓦の色は、この当時のみ使われた深海色という色です。
O邸(昭和58年)
この時期、粟野ハウジングの自宅のような重厚な入母屋造りの建物を造り続ける一方で、
写真のような数寄屋造り的デザインの建物も手がけるようになりました。
反り屋根を廃し、直線屋根となって、勾配も緩くなっています。
S邸(昭和61年)
この建物は粟野ハウジングにとって記念碑的なものとなりました。
現代的な化粧作りを進めてきた中で、デザイン的にも頂点を極めた感がありました。
後続の化粧作りの家の指針ともなりました。
I邸(平成2年)
時代に遅れまいと、洋風の建物をアピールするために初めての現場見学会を開きました。
大変多くの人で賑わった記憶があります。
N邸(平成4年)
粟野ハウジングの原点に回帰したような建物です。
粟野ハウジングの自宅を見た建築主の希望でこのような建物となりました。
入母屋造りの王道を行く重厚感のあるデザインとなりました。
遺憾なく粟野ハウジングの技が発揮されています。
S邸(平成7年)
2世帯住宅です。
この頃になると洋風の建物も多く手がけるようになり、デザインも洗練されてきました。
2日間の現場見学会を開きました。
I邸(平成8年)
建築主が造園業を営んでいて、和風の建物が希望でした。
土瓦一文字葺きに軒先は銅版葺き、洗練されたデザインで「茨城住まい匠大賞」受賞に繋がりました。
T邸(平成11年)
洋風の建物ではありますが、屋根の出が長く和風の要素も合わせ持っていると思います。
和と洋の融合の中に粟野ハウジングならではの建物を模索していた時期でもあります。
S邸(平成12年)・M邸(平成13年)
茨城住まい匠大賞を受けて、和風建築への自信を深め、この時期写真のような建物を数多く手がけました。
また、粟野徹が一級建築士として設計も本格的に行うようになったのもこの頃でした。
A邸(平成14年)
洋風建築の中で粟野ハウジングの代表的な建物です。
間取り的には広い土間があったりして、地域に根ざした造りとなっています。
H邸(平成15年)
H邸は3年の歳月をかけて完成した粟野ハウジングの力作です。
床面積100坪。柱は全て5寸角以上、丸桁は10間通し物、通し柱はケヤキの1尺5寸角と全てにおいて過去の作品を凌駕するものとなりました。
入母屋造りの技術の全てがこの建物にはあります。
T邸(平成17年)
自由な発想で和風建築をやりたい。
そんな考えに建築主のTさんも大いに共感してくれてこの建物は実現しました。
それまでの和風建築の常識を破るのは大変でした。
あれこれ試行錯誤して生みの苦しみを沢山味わった思い出があります。
詳しくは「こだわりの家」をご覧下さい。
O邸(平成19年)
邸は粟野ハウジングの熟成された和風建築の技術で作られた建物です。
年月を経ても味わいの増す建物は、やはりこの様な建物だと思います。
高齢者にも優しい平屋建です。
F邸(平成21年)
建築主のFさんは、自然素材の家づくりに並々ならぬ情熱を持った人でした。Fさんとの出会いがなかったらこの家は生まれませんでした。
Fさんと時間をかけて何度も話し合い、和風住宅にありがちな形式的なものや虚飾をそぎ落とし、素朴でありながら個性的な家を目指しました。
粟野ハウジングはこの家によって和風の新しい方向性をみいだしました。
詳しくは「杉と漆喰の家」をご覧下さい。
N邸(令和元年)
【余白のある家】
すっきりとした現代的な外観ですが、床の間のある続き部屋、土間などの古き良き日本の家の余白的空間を取り入れた家です。粟野ハウジングの和風建築の技術が発揮された建物です。



番外編

神明お囃子会の山車(昭和59年)
下妻市神明地区のお囃子会の山車を製作した時の様子です。
左端が2代目粟野真介です。